カワセミ撮影が低調なので鎌倉へブラブラ行って来ました 湿度が低く風も爽やかで歩くにはよかったです 今日の目的地は材木座の光明寺です その近くに九品寺があるので寄ってみました 両方共浄土宗のお寺さんです 鎌倉では珍しい(?)のではと思います 鎌倉巡りは25年振り位ですので ”前は、、、” と出ましたら相当前の事です
9時半 鎌倉着 今日も混んでいました 今は紫陽花のシーズンですね
下馬を左へ、、、、
15分程で九品寺到着 新田義貞が北条氏の戦死者を供養するために建立した
義貞の筆を写したと言われているものが有る
材木座海岸が見えて来ました ちょっと寄って見る
もう直ぐ海開き、、、、
5分程で光明寺到着
ここの三門は立派ですよー 浄土宗では関東一と何処かで見た記憶が有るんですがー 鎌倉札所第18番です 巡礼の方がいました
本堂です 中に入って阿弥陀様を近くで拝めます 妙本寺もここも拝観料取らないのです 観光寺院では有りません なのに参拝者に対して気を使ってくれています
阿弥陀様です 撮影禁止とは書いていなかったので一枚 ss1/25で撮影
蓮池です 向の建物で写経をしていました
石庭です 石の意味は、、、、、
本堂から三門を見る
三門を出て左へ 細い道を左へ、、、、
光明寺には大名のお墓が有ります 延岡藩内藤家の墓です これを見に来る方は殆んどいないと思います 始めて見たときには鳥肌もんでした 今は家が建っていますので見た感じが違っちゃいました 中に有る石像が動く、、、何て話も有るそうです (^◇^) 大きい石塔は3メートル位有ります
3メートル程の塔 目の前で見れます 大きいですよー 手前から正樹 ひとつ飛んで政陽
元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する 四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人ともいわれ、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲ったという。 4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免措置を勝ち取ったという。
だが、この騒動で領主・内藤政樹は責任をとられ、日向・延岡藩7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる
延享4年(1747年)、三方領知替えにより牧野氏は常陸国笠間藩に転封となる。 代わって陸奥国磐城平藩より内藤政樹が7万石で入封した。 この磐城から延岡の配置換えは、実は江戸時代で遠くに飛ばされた記録でもある。 内藤氏は最も長く在封し124年間この地を治めた。 以後、内藤氏8代は全て養子による相続という珍しい記録を持っている、、、、、、とネットに書いて有りました 直ぐに調べられる ネットは便利です (^◇^)
内藤家の墓所は、磐城平藩時代に、江戸霊厳寺から鎌倉光明寺に移されているが、その原因は勧進相撲が寺で行われたさい、内藤家墓石に板を掛け観覧席にしてしまった事と言われている。
墓参に来ていた、二代目・内藤忠興の側室・香具姫(天光院)がそれを目撃。激昂して墓の移転を申し出たが、住職が渋ったため、石屋太右衛門に頼み墓から棺を引き抜き移転したと言う。
塔などの物件の内訳は「墓碑58基(宝筐印塔40基、笠塔婆12基、仏像形4基、五輪塔形1基、角塔婆形1基)、灯籠118基、手水鉢17基、地蔵尊等9基」 磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末までの、代々の墓所が一同に祭られている。 このように江戸初期から末期まで、代々の大名の墓が整然と全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。 光明寺は鍵を預かっているだけで管理は鎌倉市 社務所に言えば入れるらしい 今度行ったら入ってみよう
内藤正樹 (内藤家六代目 日向・延岡藩7万石へ移封)
内藤政陽 (内藤家七代目 延岡藩二代目))
本妻or側室?
14時10分帰宅 本日 16,500歩